(前回からの続き)
長い梅雨が明けたその日、頭上に容赦なく降り注ぐ日差しを浴びつつ、
アパートから最も近い辻堂駅まで歩き、東海道線でひと駅の茅ヶ崎駅へ。
相模線に乗り換える跨線橋を渡ると、ホームにはオレンジ色に塗られたキハ35系が
“カラカラカラ・・・”と眠そうなジーゼルエンジンのアイドリング音を響かせていました。
朝の通勤時間はすでに終わり、地元の人しか乗っていない車両へ乗り込みましたが、
発車までまだ5分以上あったので、ホームの自販機で缶コーラーを1本買いました。
「橋本まで結構時間が掛かるんだよな。片岡(義男)の本でも持ってくればよかった」
先週、学校の帰りに辻堂大踏切の近くにある『のばら書店』で新刊を買って、
読みかけにしたままベッドの書棚に置いて来たことを思い出しました。
プルタブに指を掛けて“プシッ、”という音を立てて引き抜き、缶コーラを一口
喉へ流し込みました。
昨晩、甲府の自宅へ電話を入れると、SRはすでに父親名義に変更手続きを行い、
自宅へ置いてあるとのこと。
まだ見ぬ恋人に恋焦がれる気持ちを抑えきれないままバイトを休み、国鉄を乗り継ぎ
甲府の実家を目指すことにしたのです。
「お待たせしました。2番線より橋本行き、発車します」
開いていたドアが閉まり、“ブゥーーーッ、”と発車の合図が一際高く響いた後、
自分を乗せたキハ35はディーゼルエンジン音を上げてノロノロ動き出しました。
「やっと勝沼(現:勝沼ぶどう郷駅)か。中央線も長いんだよなぁ」
16で原付免許を取る前までは、所謂『鉄っちゃん』だったので、電車に乗るのは
嫌いではなかったのですが、当時の中央線、特に八王子以西は普通電車に乗ると、
甲府までゆうに2時間は掛かりました。
しかも長い笹子トンネルを抜けると、盆地独特の蒸し暑さが窓を開けた車内にも
入り込み、天井で回る扇風機も籠った温風を掻き混ぜているだけでした。
少しでも暑さを紛らわそうと、シャツのボタンを2つ外し、進行方向から入る風を
胸元に入れ、涼を取りながら車窓に広がるブドウ畑に目をやりました。
「ご乗車頂き、ありがとうございました。次は甲府です。身延線はお乗り換えです…」
いつの間にかウトウトしていた耳に、車内アナウンスが流れてきました。
「おっと、寝ちまった…。危なく小淵沢まで連れて行かれるところだった」
シャキッとせねば!と立ち上がり、見慣れた甲府の街並みを眺めて八王子で
乗り継ぐ時間に買った漫画を手に、ドアのそばに移動しました。
速度を落とし、ホームに滑り込んだ115系電車のドアが開くのを
もどかしく感じながら、5月中旬以来に甲府の地に足を降ろしました。
「うわッ、やっぱり甲府は尋常じゃない暑さだな」
ホームは駅員が少しでも温度を下げようと撒いた水で濡れていますが、
それだけは体中を容赦なく包む高い湿度を下げる役には立ちません。
足早に跨線橋を渡り、駅員に切符を手渡し、改札口から外へ出ました。
駅前に並ぶタクシーには目をくれず、左手に立つ百貨店の下にある
バスターミナルへと足を進めました。
乗り場で次のバスを確認すると、10分後。
自分の実家のある、甲府の外れに行くバスはおよそ1時間に2本程度だったため
10分くらいなら気にならない待ち時間でした。
白いハンカチを顔の前でパタパタと振って、暑さを凌いでる30代らしい
女性の隣に座り、読んでしまった漫画を読み返していると、灰色にぶどう色の
ラインを入れた昔から見慣れた地元のバスがゆっくり入ってきました。
“プシィィィーーー、”
真中のドアが開くと、バスを待っていた人達が気だるそうにステップを
上がって、ゆっくりした足取りで車内に吸い込まれていきます。
プラスチック椅子に腰かけていた自分も立ち上がり、その列に続きました。
一番後ろから1つ前の2人掛けシートに収まり、発車を待ちます。
「お待たせしました。湯村営業所経由、昇仙峡行きです」
運転手が今まで何度も繰り返してきただろう、行き先案内を車内マイクで告げると、
中央のドアが閉まり、クラクションを1つ鳴らしてバスターミナルを出ました。
“ガロロロロロォォォーーー”
来る時に乗った相模線とは違うジーゼル音を残しながら、去年まで毎日見ていた街中を
走り抜けて、通っていた高校へ行くコースとは逆のルートをバスは進みました。
途中の湯村営業所では、敷島(現在の甲斐市)へ乗り継ぐ人が4~5人乗り、
営業マンらしい白いYシャツ姿の若い男2人が乗り込んで来ました。
「あと少しだ。もうすぐSRに会える」
ここから5~10分もバスに揺られれば、実家のあるバス停に着きます。
さっき以上に見慣れた風景を眺め、自分が大学へ入学した春とはさほど変わらない
狭い通りに、少しだけ懐かしさを感じました。
「次は千塚上町。千塚上町です…」
降車ブザーに手を伸ばし、席を立ちました。
運賃表に示された料金を小銭で支払い、ステップを降りると
いつも使いに行かされた酒屋と一度だけ世話になった外科病院の前。
“ファンッ、”とクラクションを1つ残し、走り去るバスの排気煙を
吸い込まないよう足早で道路の反対側に歩きました。
「はぁ~、やっと着いた。…もう3時半過ぎか」
夏の日差しはまだまだ勢いを残し、真上を少し下に傾いた場所から
容赦なく降り注いでいます。
そのせいでバス停から家に続く小路は建物の影にくっきりと沈み込み、
頭上に広がる青空と対照的なコントラストの強い光景を見せていました。
砂利を踏み締め歩みを進めると、次第に見慣れた実家が近付き、
隣の子が練習しているらしい、ピアノの音が開いた網戸から流れていました。
次の瞬間、いつも父親がラビット(S301)を停めている場所に、
強い日差しを跳ね返すほど輝くメッキフェンダーと、2つの赤い反射鏡を従えた
真四角に近いテールランプを持つバイクの後ろ姿が目に飛び込んで来ました。
「あっ、あれがそうか!」
足早に駆け寄ると、しっかりワックスでピカピカに磨かれた、黒に赤いラインの
入ったタンクを主張するように、センタースタンドで立ったSRが佇んでいました。
(その9へ続く)
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